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あらためて自己紹介

本日も、南青山・表参道でありながら、初心者でも気軽に一人で行き着けにできるバー「BRESS aoyama」のホームページにお越しいただき、誠にありがとうございます。

このホームページを立ち上げて約半年経ちましたが、キチンと自己紹介したことがありませんでした。

なのであらためてご挨拶をさせてください。

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私は東京の南青山で小さな酒場を営んでおります齋藤和仁と申します。

店名は「ブレス青山」。

おかげ様で、2017年1月21日、開業13周年を迎えます。

 

これを機に、あなたとの信頼関係を確固たるものにしたくて、この文章を書いております。

これからお話する事は、正直言ってあまり人には話したくないことですが、

私自身について知っていただくために全てをお話しいたします。

長い文章になりますので「齋藤のことなど興味はない」とお思いでしたら、今すぐこの画面を

閉じて、あなたの貴重な時間を他のことに割いてください。

 

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まだご覧になっていますか?

 

それでは話を始めさせていただきます。

 

私の父は大手通信会社の会社員でした。その昔、国営企業だった会社です。

私が生まれたのは、ベビーブームに沸く1970年。高度経済成長期の真っ只中でした。

子供の数が多く、幼い頃から競争を強いられた学歴偏向の世の中でした。

高校・大学と当たり前のように受験するも

「将来○○になるために、この学校に行き、○○を学ぶ」という意識はなく、

「少しでも偏差値の高い学校に入る」こと自体が目的となり、自分の将来について考えることを、一切放棄していました。

 

就職についても同様です。

バブル崩壊後の就職活動でしたので、

「何をしたいのか」

ではなく

「何でも良いから受かれば良い」という考えで、なんとか長野県の会社に滑り込みました。

 

それなりに分かったような口を聞いていましたが、全てが誰かの受け売りで、

自分で道を切り開くことなど、ただの一度も経験の無いモヤシのような青年でした。

 

間違っても「今時の若者は・・・」なんて文句はつけられません。

 

全てにおいて、何とか自分に責任がかからないように、トラブルに巻き込まれないように、

そんなことばかりに注力していた男です。

そんな人間が仕事で成果を上げられるワケがないですよね。

怒られても責任逃れの言い訳ばかり。

それが通用しなければ最後にふてくされる始末です。

最終的には、社長・部長とモメにモメ、なかば逆ギレ状態で会社を辞めていました。

 

勢いで会社を辞めたはいいものの、再就職のアテなど無く、

思いついたのが、学生時代に女の子にモテたくてアルバイトした

バーの仕事でした。

 

誤解が無いように申し上げておきますが、

私がバイトしていたバーは知名度こそ無いものの、きちんとした考えのマスターが心血注いで作り上げたお店です。

チャラチャラした大学生に、一杯たりともお酒をつくらせるようなことはありませんでした。

ただ、会社員時代、後輩などを寮に招いては、見よう見まねでカクテルを振舞っていたので、

勝手にできる気になっていたのです。

 

それでも、しっかりと商いをされているBARに、雑用から働かせていただくつもりで、

頭を下げて就職すれば良かったのですが、私の選択は全く違うものでした。

 

あろうことか、微々たる退職金とそれまでの貯金を使い、さらに借金までして、

いきなり開業しようと考えたのです。

 

これにはさすがにストップがかかりました。

特に誰にも相談することなく動いていたのですが、

偶然、数年ぶりに当時東京に住んでいた姉から電話がかかってきて、話の流れで、つい喋ってしまったのです。

 

「アンタみたいな素人が、いきなり店構えたって、誰も来るわけないじゃない!

最低限、一度も銀座で飲んだこともない奴が偉そうなこというんじゃない。

BARをやるならやるでいいけど、まずは一回東京に来なさい。当面ウチに住めばいいから、

東京に来て、銀座でも新宿でも行って、たくさんのBARを見て、その上でよく考えなさい。」

 

昔から、五歳年上の姉には反抗した記憶がありません。

理由はよく分からないのですが、なぜか言うことを聞いてしまうのです。

もちろん、そうでなくても彼女の言うことは正論です。

私は東京に向かいました。

大学生の時に二度、一度は遊びに、もう一度は就職活動で上京したことがあるのですが、

三度目の、そしてこれから住むことになる東京は、確固たる意志も、大いなる夢も、何も持たない若造にとっては、

あまりにも強大で、あまりにも遠く感じる街でした。

当時、新宿にワンルームのアパート住まいをしていた姉は、

私が転がり込んで来ることを見越して、浅草の公団住宅を確保していました。

 

さらに姉は、自らのクライアントのもとに私を預ける手配までしていました。

そのクライアントというのが、イタリア在住の、作家活動もしているヨーコさんという日本人女性でした。

彼女は国際結婚をしていて、そのご主人がローマ出身のイタリア人なのです。

そしてご主人の所有する木造帆船を使ってのビジネスを手伝ってくれる若者を探していたのですが、

その白羽の矢が私に刺さったのです。

 

バーテンダー、関係ないじゃん・・・

 

昔から、姉には反抗したことがありません。

 

上京して一ヶ月も経たない、ある夏の日、

私は地中海沿岸にあるインペリアという片田舎にポツンと突っ立っていました。

 

英語すら喋ることのできない日本人。船の仕事など全く未経験の若造。

少しの油断が命の危険につながる海の上の仕事・・・

嬉しい楽しい海外生活など0・01%も無いことに気がつくのに、さほど時間はかかりませんでした。

 

その後の詳しいイタリア生活については、機会があればお話するとして、なにせトラブルしか起こらなかったと言っても過言ではありません。

 

ただ、そのイタリア生活の間に、私を生まれ変わらせる出来事があったのです。

 

初めての環境・慣れない仕事で、言い訳しようにも言葉が通じない場所で、

疲労の極致にあった私を、ある日ヨーコさんが食事に招いてくれました。

料理についても造詣が深い彼女は、

イタリア料理の基礎を教えてくれ、何度か簡単で美味な食事を振舞ってくれていたのですが、

その日は様子が違いました。

 

新品のテーブルクロス、

ご近所の奥様から特別に仕入れた手作りトルコパン、

地中海の太陽そのものを宿したかのような甘いトマトのサラダ、

これまた近所の教会から仕入れた濃厚なフレッシュ・オリーブオイルと庭から手摘みしたバジルが薫るスパゲッティ。

 

極めつけはカジキのソテーです。

 

一口食べた瞬間、鼻・口・食道・胃の全てから強力な圧力が働いて、身体の中にある疲れとストレスが、

背中から外に押し出されるのを確かに感じたのです。

 

「何ですか・・? これ・・?」

我ながらバカ丸出しの質問です。

 

それでも私の表情から何かを読み取ってくれたヨーコさんは、「ソースが秘訣なの」と教えてくれました。

2種類のパプリカを大量に用意して、表面を一つずつ焼き、皮をむき、種を取り除きます。

それらを一口大に切った後ていねいに裏ごしし、塩・胡椒・ニンニク・オリーブオイルを合わせ、

弱火でゆっくり煮詰め、密度を高めて作ったソース・・・

「うん、久しぶりに作ったけど上出来♪」

 

「どうしたんですか?今日はいったい」

私は思ったことを素直に口に出しました。

 

「だってカズさん(私の呼び名です)日本に帰ったらバー開くんでしょ?

私はカクテルは分からないけど、料理だったら教えられるから。」

 

「無理です。ボクにはこんなスゴイ料理は作れません・・・」

 

「コレを作れって言ってんじゃないの。でも感じなかった?美味しい料理のパワー♪」

 

「!」

 

その夜は見事な満月でした。

船を停めてあるハーバーに戻った私は、堤防に体育座りをして、しばらく月と、その月を写す海を見ていました。

大きく優しい月でした。

その月を見ながら、生まれてはじめて自分の中に自信が生まれてきました。

 

「オレは間違ってない」

身体の中で引き鉄が引かれる感じがしました。

おそらくそれを「決意」あるいは「覚悟」と呼ぶのだと思います。

 

数ヵ月後、私は日本に帰国しました。

家に着いた私を見て、姉が開口一番「へええ~っ!」とニヤついたのを今でも憶えています。

 

間も無く私はフロム・エーから探し出した六本木のBARで働き始めました。

トレンチ(お盆)いっぱいに乗せたグラスをひっくり返って全て割ったこともあります。

一〇歳近く年下の先輩社員に怒鳴られた事も多数あります。

日中はバーテンダースクールに通い、夕方5時から翌朝4時まで働き、

通勤途中の電車内では、単語帳で専門用語とカクテルレシピを覚え、

家では食事中と風呂・トイレ・睡眠中以外はずっと手のひらでバースプーンを回す練習をしていました。

 

ある程度カクテルレシピを覚えると、先輩社員に「今日いいすか?」と無理に残ってもらい、技術指導を受け続けました。

 

それでも時間が空いたときは、浅草中心にBARを巡り

「これからバーテンダーになるんですが、何をどう飲んだら良いですか?」とワケの分からない質問をして、

お店の人を困らせていました。

 

残った金は全てリキュールと本と道具の購入に使い、自宅でもカクテルの練習に明け暮れました。

 

六本木のバーは全部で5フロアあって大きな店でしたので、

「独立するなら小さなカウンター主体の店」

と考えていた私は、銀座に移りました。

 

銀座で受けた洗礼(?)についても、機会があればお話しましょう。

 

六本木ではバーテンダーの基礎知識とカクテル中心に学んだのに対し、銀座では主にハードリカー、

特にシングルモルトとラムを学ぶ機会に恵まれました。

 

その後移った西葛西では、本格的に独立の準備として、カウンター業務以外にもフロア全体の責任者として、

イベントの立ち上げ、展開の仕方を失敗を繰り返しながら憶える一方で、ホテルのフレンチ出身のチーフに料理を学びました。

 

念願が叶い、独立・開業を果たしたのは2003年の1月21日、今から13年前のことです。

 

店名は「BRESS青山」。

「祝福」という意味の「BLESS」から付けました。

 

そのままの綴りでも良かったのですが、Bを隠すと「LESS」になるのが嫌で「BRESS」としました。

 

かつてイタリアで、孤独と疲労とストレスに苦しんでいた私を、ヨーコさんの料理が1発で楽にしてくれたように、

そしてその後、優しく照らしてくれた満月から感じたように、

私の店を訪れる全てのお客様に「祝福」が訪れることを願って作った店です。

 

お忙しい日々の生活の中で、「電池が切れそうに」感じたら、充電しにいらしてください。

 

カウンター越しの関わりではありますが、あなたが翌日からよりイキイキと輝けるように、精一杯支援いたします。

 

「真面目に生きるあなたを元気にする」

それがわたしのミッションです。

 

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

 

2016年12月吉日

BRESS青山  齋藤和仁

“あらためて自己紹介” への2件のフィードバック

  1. 相馬和代 より:

    はじめまして。ひとりでリラックスしてお酒が飲めるお店を探していたら貴店のブログに目が留まりました。マスターの誠意あるおもてなしの心に感銘を受けぜひ、行ってみたくなりました。私も美味しいお料理とお酒をいただいて気持ちが元気になりたいです(^o^)

    • bressaoyama より:

      相馬 和代 様
      コメントありがとうございます。誠意あるおもてなしの心と言えるか分かりませんが、正しいと思った事をやるように心がけております。
      当店でよろしければ、ぜひお越し下さい。
      お待ちしております。

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